街のアートガイド

リヨンの美術館巡り:ルノワールとヴァラドン、美術館と絹織物の街を歩く二日間

店の賃料が修道女の生活を支え、美術館が絹織物業を助け、女優が街に絵を遺した。リヨンの美術には、人がどう稼ぎ、何を信じ、どのように暮らすかという話が絡み合っている。

2026年11月2日 · 7分で読めます · ART WIKI編集部

テロー広場に面したサン=ピエール宮の厳かな正面の奥では、祈りの暮らしと商売の収入が隣り合っていた。ここに住む修道女たちの生活費の一部は、店舗の家賃だったのだ。現在この建物に入るリヨン美術館を見る前に、その仕組みを思い浮かべると街の一面がわかる。リヨンでは美術が幾度も、信仰、金銭、仕事の間を行き来してきた。絹織物業者を助ける目的もあって設立された美術館に、のちには女優のコレクションが入り、一人の画家は生涯の多くを、魂の旅を描くことに費やした。

美術館を一日の中心に据え、午後は絹織物の地区クロワ・ルースへつなげよう。二日使えるなら、絵画と旧修道院の建築を分けて見て、織物の見学にはもう一方の午前をあてたい。絵はルノワールの《青いリボンの若い女性》から、シュザンヌ・ヴァラドンの《マリー・コカと娘ジルベルト》、ルイ・ジャンモの《魂の詩:春》へ。成長する人、視線をそらす人、互いの存在に気づく人がいる。リヨンに来るまでの道のりは、三作でまるで違う。

サン=ピエール:自らの暮らしを賄う修道院

修道院長アンヌ・ド・ショーヌがサン=ピエールの再建資金を確保したのは1659年だった。工事が終わる1685年には、妹のアントワネットが院長になっていた。四つの棟が回廊を囲み、宗教共同体には宮殿ほどの規模の住まいができた。後年、地上階の店舗が収入の一部をもたらす。旧修道院を歩く間、この二つの用途を一緒に考えたい。世俗から離れて暮らすために、街の商売を完全に締め出す必要はなかった。

革命で修道女たちが去り、1792年に市議会は建物を美術保存の場所に定めた。美術館の正式な設立は1801年。目的の一つは実用的で、苦境にあったリヨンの絹織物業に手本を提供することだった。画家がどう色を組み合わせるか、花をどう細かく観察するかは、額縁の外にも影響を及ぼす。新たな公共施設となった建物では、美術教育と、ものを作って売る必要に迫られた街の事情が結びついていた。

絵に向ける注意を少し建築にも分けてみよう。旧食堂と大階段には、1675年から1684年にかけてトマ・ブランシェが手がけた大がかりな装飾が残り、ニコラ・ビドーとシモン・ギヨームの漆喰浮彫もある。人々が移動し、共同で使う空間だった。その大きさを実感すると、美術館がここで成長しながら、受け継いだ建物を完全には消さずに済んだ理由がわかってくる。

ルノワールと、絵をリヨンに遺した女優

青い首のリボンが、静かな肖像の中にくっきりした一点を作る。1888年の《青いリボンの若い女性》は、ルノワールが印象派の自由な筆遣いを問い直していた時期の終わりに属する。絵具の軽やかさを失わず、もっと確かな量感を得たかった。人物の輪郭と、それほど明確ではない背景の関係を見てほしい。顔を確かな実体として感じさせながら、表面には筆触が見えている状態をどう保つか。触覚にも近い問題だ。

Jeune fille au ruban bleu
ルノワール、1888年。形の定まった人物と、柔らかく描いた背景が釣り合う肖像。 作品を見る →

このルノワールをリヨンへもたらしたのは、1997年のジャクリーヌ・ドリュバックの遺贈だった。リヨン生まれのドリュバックは舞台と映画で活躍し、サシャ・ギトリと結婚していたこともある。1950年代初めに女優を辞めたあと、自分のコレクションを築いた。のちの夫ミラン・エクナヤンは19世紀美術を集め、この絵も彼のものだった。遺贈では夫の絵と、より新しい時代を選んだ妻の絵が一緒になり、二人の好みの違いもそのまま残った。

1988年、ドリュバックはコレクションの将来を考え始めていた。一般公開された1998年は、美術館の改修完了と重なった。誰かがともに暮らしたいと選んだ作品を通して、新しくなった建物へ入っていく。リヨンにはずいぶん個人的な入口ができた。来館者には画家の名と年代の連なりに見えても、それは好みや買い物、同じ家を共有するという日常を通して集まった、心のための調度でもあった。

ヴァラドン:こちらを見返す子ども

母より低い位置に座るジルベルトは、人形を抱え、こちらを見ている。マリーのほうは、そう簡単に近づける様子ではない。1913年の《マリー・コカと娘ジルベルト》で、シュザンヌ・ヴァラドンは、見慣れた母子という組み合わせに落ち着きにくさを与えた。床の遠近法が部屋をこちらへ押し出す。椅子、衣服、身体は、触れられそうな強さで場所を占める。子どもの眼差しから見始めて、母の姿勢が、その視線をどれほど安心させないかを見てみよう。

マリーはヴァラドンの姪だった。画家が多くの肖像の相手に選んだ、親戚や友人の輪に属する作品である。壁には、彼女が画家になる志を励ましたドガの作品の複製が掛かる。それ以前には、ヴァラドンはルノワールやピュヴィス・ド・シャヴァンヌらのモデルだった。だが、ここで対面を決めるのは彼女自身だ。誰が外を見るか、身体をどう置くか、家族の場面にどこまで安らぎを許すかも。

Marie Coca et sa fille Gilberte
1913年の二人肖像。ヴァラドンは子ども、母親、人形に、それぞれ異なる存在感を与えた。 作品を見る →

1935年、リヨンはシャジエール財団の収益を使い、ヴァラドン本人からこの絵を購入した。その決定を、後年のドリュバックの寄贈と並べて考えてみたい。公的なコレクションは、ある人が絵に抱く私的な愛情でも、生きている画家を支えようとする施設の選択でも増えていく。そうして集まった肖像同士で、美や親密さの考えが一致する必要はない。食い違いがあるからこそ、両方の前で時間を過ごしたくなる。

ジャンモ:喪失が始まる前の春

花を摘む子どもたちなら、難しく考えずに見られそうだ。ジャンモの《春》では、その出会いが、存在についてのずっと長い物語の初め近くに置かれている。《魂の詩》第1部の4番目の絵で、少年が、青春をともにする少女と出会う。花々のおかげで、この瞬間だけで十分な気がする。だが、先に物語が続くと知ると見え方が変わる。この幸福は、のちに危機にさらされるものなのだ。

1835年にローマで着手した計画を、ジャンモは1881年まで続けた。18点の絵画と16点の大きな素描に長い詩が添えられ、地上と精神の旅をたどる。彼のカトリック信仰と、19世紀リヨンの宗教復興から育った仕事だった。同時に、途方もない年月を費やす仕事でもあった。この一場面の新鮮な始まりは、作者とともに年を取った計画の中にある。

Le Poème de l'âme. Le Printemps
《春》に描かれるのは、地上の生涯と魂の試練をたどるジャンモの長い物語の、初めのほうの出会い。 作品を見る →

ドラクロワの助力で第1部は1855年のパリ万国博覧会に出品され、ゴーティエやボードレールの関心を引いた。それでもジャンモは望む成功を得られず、さらに何十年も制作が続いた。全構想を一度に理解しようとせず、この絵に近づいてみよう。神学的な説明を読む前に、花の咲く地面で子どもたちが交わす身振りを見る。魂についての長い議論にも、まず二人の間の小さな出会いに説得力が要る。

クロワ・ルース:花を織機へ連れ戻す

絹織物業者たちは1756年、リヨンに無料の素描学校を作るよう働きかけた。授業には花の研究があり、のちには学生が植物園で自然を写生した。この話を知ると、美術館が植物、表面、色に注ぐ関心を、もう一度読み直せる。見る技術は、賃金を得る仕事の準備にもなった。花は模様になり、模様は一反の絹を売る力になりえた。

坂を上り、イヴリー通り10番地のメゾン・デ・カニュへ行こう。ガイド付き見学では、手動のジャカード織機の実演が見られる。通常の入館だけで実演も見られると思わず、実演を予約したい。2026年秋、美術館は一部閉鎖を案内しているので、特定の作品を目指す場合は入れる範囲を確認しよう。定休は火曜日。織物の見学にも、説明を聞く時間を十分に取っておきたい。出来上がった表面を何時間も見たあと、その表面が作られるところを見て一日を終えると、見てきたものが手の仕事につながる。

表紙: Jeune fille au ruban bleu — Pierre-Auguste Renoir. © Image © Lyon MBA – Photo Alain Basset; Ministère de la Culture (France), base Joconde