街のアートガイド

グルノーブルの美術館巡り:モディリアーニ、ファンタン=ラトゥール、マルヴァル

落選した自画像、結婚祝いになった女神、パスタの広告を描いていた館長。グルノーブルの美術館は、一人ひとりの個人的な決定から育った。

2026年11月2日 · 7分で読めます · ART WIKI編集部

白いシャツの若者が、筆を持って暗がりから現れる。アンリ・ファンタン=ラトゥールが1859年にこの《自画像》を描いたとき、23歳だった。パリのサロンへ送ったが、落選した。四十年以上後、彼は生まれ故郷のグルノーブルへ贈った。この町の所蔵品には、時代の好みに逆らうこともあった、具体的な人々の決定が満ちている。

グルノーブル美術館には午前を取ろう。購入と同じくらい、贈与や個人的な依頼がコレクションを形づくった。描かれた顔の背後には友情や学芸員への手紙があり、制作から何十年も後に書かれたものもある。記録では紹介作の所蔵先は確認できるが、現在見られるとの確認はない。目当ての一枚について館へ連絡し、作品の間には、それぞれの画家が白をどう違って使うかを見る時間を残したい。

結婚祝いに届いたフローラ

地球の曲面の上に立つ裸の女性の周りに、花が散る。フランソワ・ジェラールの1802年作《ゼピュロスに愛撫されるフローラ》では、風は第二の堅固な身体を持たずに存在となる。フローラは胸の前で腕を折り、目を閉じる。彼女の身体が控えた動きを花が運ぶ。まず散る花、それから足元を見よう。場面全体が、踊りと浮遊の間で釣り合っている。

Flore caressée par Zéphyr ; L'Aurore (Ancien titre)
フランソワ・ジェラール《ゼピュロスに愛撫されるフローラ》、1802年。神話の主題が、結婚祝いとして私的な意味を得た。 作品を見る →

館は主題をオウィディウスのフローラとゼピュロスの話へ遡らせ、より身近な機会も特定する。ジェラールは友人のフールクロワ夫人、旧名アデライード=フロール・ベルヴィルの再婚祝いに贈ったのだ。その名には意味がある。花の女神の世界は、実際に贈り物を受け取る女性へも語れた。絵はシャルル・ゴーダンのパリの家の装飾計画に属し、1900年にレオン・ド・ベイリエの寄贈でグルノーブルへ入った。

これらの場所を一緒に考えながら見たい。神話が距離を与える一方、贈り物は身体を、友人、結婚、趣味の私的な輪へ戻す。ジェラールの表面は、ファンタンの若い画家のシャツとは違う注意を求める。どちらも、人がたまたまどう立つかを無心に記録したものではない。一方は私邸の客へ向き合い、他方は展覧会審査員の判断に向き合った。

落選した自画像が故郷へ戻る

ファンタン=ラトゥールは《23歳の自画像》を1901年まで手元に置いた。サロンで拒まれたあと、友人フランソワ・ボンヴァンがアトリエ展で場所を作った。何十年も後、グルノーブルの学芸員ジュール・ベルナールが作品を求める手紙を書き、ファンタンはこの絵で応じた。館の説明には、ベルナールが市長へ喜んで報告した様子が残る。適切な相手へ頼むという、日常的で、同時に難しいことから、コレクションは育つことがある。

Autoportrait. Portrait de l'artiste âgé de 23 ans
1859年のサロンで落選したファンタン=ラトゥールの自画像は、1901年、本人の寄贈でグルノーブルへ届いた。 作品を見る →

1836年にこの町で生まれたファンタンは、五歳で家族と去った。地元の眺めを描き続けた一生というより、帰還と記憶のつながりだ。肖像では顔、シャツ、筆を持つ手に光が当たり、背景は暗い。筆は職業上の主張になる。明るい布も画家の課題だ。白い一片は、身体から離れてしまうまでに、どれほどの光を受け止められるだろう。

手紙には、ルーヴルへ行ったあと、夜に鏡の前で制作したことが記される。使えるモデルは自分だった。その実際的な事実は、顔に心理的な告白を創作するより役立つ。暗さに接するシャツの縁と、光で手が読み取れるようになるところを見よう。自分の手段を試し、その試みを、真剣に扱われるべき証拠として提示する人を見ているのだ。

ジャクリーヌ・マルヴァルが変えた顔ぶれ

四人の女性が床に座り、五人目が飲食物を運ぶ。ジャクリーヌ・マルヴァルの1902〜1903年作《オダリスクたち》では、人物が広い画面へ並ぶ。身体には重みがあり、集まりの中心には普通の活動がある。題名はオダリスクという受け継がれた幻想を連れてくるが、盆と、自分たちだけで成り立つ仲間の輪が、繰り返しそれを遮る。遠くからは、顔を一つ調べる前に、一団として女性たちを見たい。

Les Odalisques
幅二メートル以上の画面を、マルヴァルの五人の女性が占める。1933年に姉妹がグルノーブルへ寄贈した。 作品を見る →

マルヴァルのもとの名はマリー・ヴァレで、グルノーブル近郊のケー=アン=シャルトルーズに生まれた。1895年にパリへ移る前には教員養成を受け、チョッキを仕立てる仕事をした。ジュール・フランドランとの関係が、絵画の別の人生を開く助けになる。文化省の伝記は、この職の変化から、1913年のニューヨークのアーモリー・ショー参加までを追う。彼女の歩みでは、グルノーブルとパリの旅は、ただ首都へ出ていくのでなく双方向の交換となる。

フランドランとともに、彼女はマティスやピカソらをグルノーブルの館長アンドリー=ファルシーへ紹介し、寄贈を得るのを助けた。《オダリスクたち》は生涯手元に置き、1933年に姉妹が寄贈した。マルヴァルは画家であると同時に、人間関係によって公共美術館が何を手に入れられるかを変えた人物でもある。そのことを知って、飲食物を囲む女性たちをもう一度見よう。作者は、ほかに誰がコレクションへ入るかの決定も助けたのだ。

白い襟と、早い時期の決定

モディリアーニの《白い襟の女》で、ルニア・チェホフスカは手を重ね、頭をわずかに傾けて座る。1917年に描かれ、1923年にベルネーム=ジュヌから買われた。館は、美術館が取得した最初のモディリアーニ絵画と位置づける。今は読み流しやすい事実だが、その美術館史の場所がまだ空いていたときに、グルノーブルが公の決断をしたことを意味する。

ルニアは若いポーランド人で、画家の画商レオポルド・ズボロフスキーと妻ハンカのもとに滞在していた。長い首と卵形の顔も、個人が前に座った事実を消さない。襟をファンタンのシャツと比べよう。どちらの白も顔へ目を導くが、道筋は違う。ファンタンは暗がりから人物を築き、モディリアーニは引き延ばした輪郭に沿って目を運ぶ。類似を一つ確認して終わらず、比較に数分を使いたい。

パスタの広告を描いていた館長

1919年就任のアンドリー=ファルシーは、画家、広告デザイナー、批評家として働いていた。館を率いる前には、卵の腹を持つ「ペール・リュストュクリュ」をパスタの広告のために作った。新聞と美術界の知識が、近代のコレクションを作る道具になった。機関自体は1798年、革命中に接収された作品を守ろうと地元市民が請願したあとに始まった。どちらの時代にも、人々は公共の収集が何をすべきかを論じていた。

最後に、1994年から使われる建物にも気づこう。建築家たちは上からの間接光と、室内、町、周囲の風景のつながりを計画した。肖像のあとには、その誘いに従って外へ出たい。選んだ絵に少なくとも二時間を取り、集中が薄れたら休み、昼食後に歩く時間を残す。全ての壁を見終えるより、一つの顔と一つの決定を覚えて帰る方が、この町にはよく合う。

表紙: Flore caressée par Zéphyr ; L'Aurore (Ancien titre) — François Gérard. © Ville de Grenoble / musée de Grenoble-J.L. Lacroix; Ministère de la Culture (France), base Joconde